項梁

?〜前208年

楚の英雄・
項燕将軍の末子。
始皇帝が死に、
陳勝・呉広の乱が起こると、会稽の郡守・殷通を項羽が一刀のもとに切り捨て、項梁は郡守の印を奪って自ら会稽郡守となった。 その後も力をつけ反秦軍の領袖となった項梁は、70歳を過ぎた老軍師・范増の献言を入れて、旧楚の懐王の孫を懐王(後の義帝)として楚の王に擁立した。
項梁は武信君と名乗り、北上して秦軍と戦い、連戦連勝した。
しかし秦の丞相・李斯の長男である李由を討ち取ってからは慢心するようになり、これを宋義に諌められたが聞き入れず、定陶で
章邯率いる秦軍に攻められて敗死した。


項羽

名は
秦末の動乱に
劉邦と天下を争って敗れた楚の武将。 楚の将軍であった項燕の孫である。
叔父
項梁に従って呉に移り、陳勝呉広の反乱に乗じて項梁とともに呉兵8,000人を率いて挙兵した。 陳勝がその御者に殺され、項梁が秦軍に敗死するや、項羽は楚軍を鼓舞し必死を期して秦軍にむかい大勝した。
先に秦都・咸陽を占領していた劉邦と
鴻門の会ののち、秦王・子嬰を殺して咸陽を焼き、劉邦らを王に封建し、自らは,彭城(徐州)に都して「西楚」の覇王と称した(前206)。

諸侯を対象に大規模な封建を行うが、その基準となったのは功績ではなく、項羽との関係が良好か否かであった。 故に、ろくに手柄を立てなかったものが優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて漢中に左遷されるなど、不公平なものとなり、諸侯の多くに大きな不満を抱かせるものとなった。 前206年、斉の王族・
田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く諸侯が続々と反乱を起こした。
義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。
これ以降の楚と漢の戦争を「
楚漢戦争」と呼ぶ。
前203年、項羽は
韓信黥布彭越らを糾合した劉邦によって垓下(安徽省霊璧県)に囲まれた。(垓下の戦い
夜半、四面に楚歌を聞いた項羽は、悲歌慷慨して有名な垓下の歌を残し、800騎を率いて囲みを破り烏江にいたって自刎して死んだ。ときに31歳であった。



范増

?〜前204年

項羽の謀臣。70歳にして項羽に仕え、その覇業に貢献、亜父と尊称された。
鴻門の会にさいしては、劉邦暗殺を進言。酒宴の席で、たびたび合図を送って項羽の決断を促したが、容れられず、やむなく席をはずして項荘を呼び、剣舞にかこつけて劉邦を殺せと命ずる。
が,これも
項伯樊カイらの機転によって不首尾に終わった。  
「ああ、豎子(ジュシ)、ともに謀るに足らず」
范増はこういって、項羽の不決断を嘆き、劉邦に天下を奪われるだろうと予測した。

楚・漢の対決のとき、范増は、
陳平の「反間の計」により、漢に内通されていると疑われて怒り、項羽を袂をわかって故郷に向かったが、その途中で背中にできた腫れ物がもとで死んだ。  

「項羽は范増という傑物を使いこなすことができなかった。それが私に敗れた原因である」
天下平定後、高祖・劉邦はこう述べたという。



英布

?〜前195年

若い頃、連座制で罪に問われ黥(入墨)の刑を額に受けたため、黥布(げいふ)とも言われる。
英布は初め
項羽に仕え、項羽軍きっての猛将で、秦の大軍を破り20万人を生埋めにしたり、義帝を暗殺したり、項羽の影の部分の役目を請け負った。 項羽が咸陽入りしたとき、九江王に封じられた。
一説によれば、この直後に英布は項羽の命で義帝を殺害したという。
しかし、項羽のやり方に疑問を感じ、しかも劉邦の計略もあり、項羽からの援軍要請を断り
劉邦に寝返った。

項羽が滅んだ後は、淮南王に封建される。
しかしその頃から、劉邦やその妻・
呂雉により異姓諸侯王が次々と粛清され、韓信彭越が誅殺されると、自分も同じ目にあうことを恐れて兵を挙げ漢に背いた。 彼は、高祖自らが率いた軍と戦って敗れ、越へ逃げのびようとして江南の番陽(はよう)にたどり着いた時農家で殺されてしまった。


虞美人

?〜前202年

楚の
項羽の愛姫。虞姫ともいい、つねに項羽に寵愛され、付き従っていた。
秦滅亡後、楚漢5年の抗争の末、前202年項羽は漢の
劉邦(高祖)の軍のために垓下の地に包囲された。 このとき漢の陣営から楚の歌がひびき(四面楚歌)、すでに郷里の楚の地も漢軍に帰したことを知った項羽は訣別の宴を張り、虞美人と名馬・騅(すい)を側にして、
「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う。時に利あらず騅ゆかず。騅ゆかざるをいかんせん。虞や虞や、なんじをいかんせん」
と歌った。
『楚漢春秋』によれば、そのとき虞美人はそれに和して
「漢兵すでに地を略し、四方に楚の歌声す。大王の意気尽きたれば、賤妾(せんしょう)なんぞ生をやすんぜん」
と歌い、ここに自害したという。
虞美人草(ヒナゲシの別名)の名は、このとき虞美人の流した血が化して草花になったという伝説によるものといわれる。



実は虞美人は存在しなかった?
項羽について記されている史書「史記の項羽本紀」、「漢書」での文中によれば、 「美人あり。名は虞。」という記述が見られる。 姓は不明ではあるが虞という人物がいたことは確かではある。
しかしここで美人とあるが、これは当時では女官の位を意味しており、役職であってけっして「美しい女性」を意味しているわけではない。 したがってこの記述からでは、項羽の側に仕えた虞という女官が身の回りの世話をしていたととらえるのが自然ではないか?
また、「垓下の戦い」では項羽軍がついに劉邦軍に包囲され、死の間際に詠ったとされる歌に、
「虞や、虞や。若(なんじ)を奈何(いかん)せん。」
と、いずれも虞なる人物が登場しているが、実は虞美人についての情報はたったこれだけ。 項羽が最後に詠った最愛の虞への惜別の歌であろうことは予想できるが、虞が項羽の妻であるとは言い切れない。