?〜前206年
秦王朝の最後の君主。
『史記』秦始皇本紀では、胡亥の兄・扶蘇の子と書かれている。すなわち、始皇帝の孫にあたる。
しかし、「李斯列伝」には始皇帝の弟としてあり、また中井履軒は「兄の子」の子は誤って紛れ込んだもので子嬰は胡亥の兄であるとしている。
宦官の趙高が、二世皇帝を殺害した後、擁立された。皇帝を称さず秦王を称した。
宦官の韓談と謀って趙高を殺し、国力の回復を図ったが力及ばず、沛公劉邦に降伏した。
のち、項羽に殺害された。
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?〜前207年
秦の二世皇帝。在位前209〜前207。 始皇帝(政)の末子。
始皇帝の死後、宦官の趙高と丞相の李斯によって皇帝として擁立された。
酷刑厳罰を容認し、自身は酒色にふけり、群臣の朝見を受けなかった。 趙高に政治を専断されて、天下は乱れた。 関東に乱が起き、劉邦の軍が関中に迫ると、趙高によって望夷の離宮に移され、さらに脅迫されて自殺した。
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?〜前208年
秦の二世皇帝の時、陳勝・呉広の反乱を鎮めるべく派遣され、各地の反乱軍を撃退した。
その後、反乱軍を率いた項梁に対して章邯はわざと敗走を続けて侮らせ、項梁を死地に誘い込み、夜襲をかけて項梁を殺した。
しかし鉅鹿の戦いで項羽に破れ、楚に帰順した。
このことで秦の滅亡が決定付けられた。
秦の滅亡後、漢中の劉邦を監視させる目的で、項羽により秦を3つに分割した内の一つ・雍王に封じられた。
後に劉邦配下の韓信に破れ自殺する。
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?〜前210年
秦の始皇帝に仕えた将軍。 祖父、父ともに将軍として活躍、,秦の六カ国討滅に大きな役割をはたした。
その家柄のおかげで、彼は将軍に任じられ、秦の天下統一後は30万の大軍を率いて北に向かい、匈奴を撃退してオルドスの地を治めた。
以来、十余年にわたって蒙恬は北方に駐屯、上郡を根拠地として対匈奴戦に従事する。
長城を築き、山川の険阻な地形を利用して城塞をつくった。
始皇帝が没したとき、始皇帝から自害せよという内容の詔書を受け取った。 蒙恬は偽りの詔書ではないかと疑い、自殺を肯んじなかった。 しかし結局、宦官・趙高の陰謀によって捕らえられ、殺される。
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?〜前207年
戦国時代末期から秦にかけての宦官、政治家。
晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることとなり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。
始皇帝の死後、その遺言を李斯とともに改竄し、胡亥を即位させる。
彼のもとで専権を振るい、李斯まで死に至らしめる。
反乱勃発の中、胡亥にはそれをひたすら隠し朝廷内を思うがままに操るが、その胡亥をも殺してしまう。
時期皇帝に、始皇帝の孫である子嬰を即位させようとするが逆に殺された。
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?〜前208年
秦の始皇帝に仕えた政治家。
『荀子』の著者である荀卿の門下で学んだ後、秦に赴き、宰相・呂不韋の推挙によって始皇帝の側近となった。 前221年、秦は天下を統一したが、李斯はこの偉業達成に大きな役割を果たし、その後は丞相として統一国家の体制作りのため、よく始皇帝を補佐した。
始皇帝のとった諸政策、郡県制度、度量衡の統一、文字書体の統一などはいずれも李斯の力によるところが大きい。
また、有名な「焚書坑儒」も彼の献策によるものであった。
始皇帝が亡くなり、末子の胡亥が宦官の趙高によって二世皇帝とされたが、この二世皇帝擁立に李斯は趙高にだきこまれて一役かった。 これが自ら墓穴を掘ることとなる。
その後、李斯は朝政の実権を握った趙高にうとまれ、まもなく無実の罪で獄に下され、腰斬の刑に処された。
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