孫臏(そんぴん)

戦国時代の斉の軍人・思想家。
春秋の呉に仕えた
孫武(孫子)の子孫で、やはり孫子と称される。
若い頃、
ホウ涓と共に兵法を学び、ホウ涓は魏に仕官しての恵王の元で将軍になることが出来た。 しかしホウ涓は孫臏に自分が及ばないことを感じていたので、偽って孫臏を魏へと招待し、孫臏を罪に陥れ、脚を切断する刑と額に罪人の印である黥を入れる刑に処した。
孫臏は斉から使者が訪れた隙を見計らって、魏を脱出して斉に到った。
そこで斉の将軍・田忌に気に入られて、その客分ととして迎えられることになる。
田忌は斉の威王に彼を推薦し、威王は彼を師とした。
前341年、魏が韓を攻撃した際、孫臏は軍師としてに韓に加勢した。魏側の軍師はホウ涓で、孫臏の策に見事はまり、これにより魏軍は敗北する。
その後の孫臏の消息は知られていない。 『孫臏兵法』は孫臏の手によると推定されている。


韓非子

?~前233年

春秋戦国時代の法家の一人で、その思想は時の秦の国王・政に絶賛され後に中国初の国家統一をもたらした秦における思想のモデルとなった。
後世にも深い影響を与えたと言われているその思想は「法と術」を基盤としている。
法とは国の運営における基盤であり法の運用の仕方が「術」である。基準としての法が徹底されれば国における機構が完備される。
君主はその機構の頂点にあり運用さえ心得ておけばどんな凡庸な君主も立派に政治を行える。 術とは君主の臣下操縦法でありこの2つに精通すればうまく政治が行えるとういことになる、というのが韓非子の思想である。

始皇帝は彼の著作を読み、
「この人に会えたら死んでも良い」と憧れたと言われる。
実際、始皇帝の元に招聘されるも李斯の策略に落ちて殺されたという。


白起

秦の昭王に仕えた秦史上最強の猛将。
黒雲の如き秦軍を率いて魏軍を龍門で破り、魏兵24万人を斬首。 遥々楚に侵攻しては楚都を陥落。
長平の戦いでは、趙奢の息子の趙括が率いる趙軍を完膚なきまでに撃破して全滅させ、捕虜となった40万人を生き埋めにする。
趙はこの敗戦によって滅亡に追い込まれる。 だがあまりにも武勲高い為か、白起も後に昭王の疑心を買い、信頼を失って秦都から追放され、爵位も剥奪されて自殺した。


王翦



李牧

戦国時代末期の趙の武将。
北方の遊牧民族・匈奴のと戦いながら軍事力増強を図り、東胡と林胡をも撃破し、趙の北方戦線を安定。
中国の軍事史上で特筆すべき功績を残し、名声も高い名将である。
李牧は更に天下統一に向けて大軍で侵攻して来た秦軍を二度に渡り打ち破るが、秦の放ったスパイによる流言飛語で趙王の疑念を買い、捕縛されて殺された。



樊於期

?~前227年

秦の武将であったが、罪を得て燕に逃亡した。
燕では太子
によって匿われる。
荊軻が始皇帝の暗殺をする際、尋常では始皇帝に謁見できないと判断し、樊於期の首を所望した。 その理由は、秦が彼の首を欲しがって懸賞を掛けていたためである。
しかしこの提案は丹は拒絶されたため、荊軻自ら樊於期の元へ赴き、仔細を話す
「恨みを晴らすにはその手もあったか!」
と言ってその場で自らの首を跳ねた。
始皇帝は荊軻が樊於期の首を持ってきたことに喜び,謁見を許した。



姫丹

?~前226年

燕の太子。燕王・
の子。
幼少の頃、人質として趙に送られており、秦の公子・政(のちの始皇帝)と幼友達であった。
長じてまた人質として秦へ行った。
政が秦王となっていたが、丹は冷遇された為、これを恨んで逃げ帰った。

勢力拡大を進める秦に対し丹は、秦王を殺す刺客を求め、
田光荊軻を紹介された。 荊軻に秦王暗殺を依頼したが、計画は失敗したため燕は秦王の怒りを買うこととなる。
燕王・喜は秦王に謝罪するために、太子丹の首を斬って献上したが、結局燕は滅ぼされる。



荊軻

?~前227年

中国史上、有名な刺客。慶卿、または荊卿とも称された。衛の人。
燕の太子
秦王(始皇帝)の暗殺を依頼され、それを引き受けた。
秦から亡命した将軍・
樊於期の首と督亢の地図を献上品としてたずさえて、秦王に謁見した。
荊軻は地図の巻物の中に猛毒を仕込んだ匕首を隠していて、それで秦王に斬りかかったが、すんでのところでかわされた。 秦の法では殿中では寸鉄も帯びてはならないことになっていたため、臣下たちも荊軻を取り押さえることができず、しばらく追いかけっこが続いたが、典医が薬の箱を投げて荊軻がひるんだ隙に、秦王が剣を抜いてひと打ちにした。
荊軻は足が動かなくなり、進退極まって匕首を投げつけたが、これも的を外れた。 侍臣に取り押さえられて、荊軻は殺された。



高漸離

筑という楽器を弾く名手で、荊軻の友人。
荊軻が秦王政(始皇帝)の暗殺に失敗すると、姓名を変えて宋子の地に隠れていた。
やがて筑の名手の評判が始皇帝の耳に届いて召されることとなる。
高漸離の正体を知っている者によって始皇帝にこれを告げたが、始皇帝は高漸離の腕を惜しんで、その目をつぶして筑を弾かせた。 高漸離は筑の中に鉛を仕込んで、始皇帝を打ち殺そうとしたが、失敗し殺された。



呂不韋

戦国時代の商人出身で,秦の統一前の丞相,相国。
河南省の人で,商人として活躍していたとき,人質となっていた秦の太子の子である
子楚と会った。
呂不韋は,画策して,この子楚を秦王の座に就かせることに尽力を注ぎ、自らは丞相となった。
子楚の子の
政(始皇帝)が位につくと初めは敬われたが、やがて疎んじられ自殺させられた。
始皇帝の実の父親は彼であるとも言われる。

呂氏春秋」の編者でもある。


成蟜(せいきょう)

?~前239年

始皇帝
の弟で、母は緑姫。
成蟜は7歳かそこいらで始皇帝の命により兵舎に放り込まれ、10年ばかり厳しい訓練を受ける。入営から一年もしないうちに、母が自殺していたとの情報をやがて得る。
その後、嬴政の慰みものとなった母の自殺の原因を知り、成蟜の復讐心は燃え上がる。

『史記』始皇本紀によると、紀元前239年(始皇8年)、長安君成蟜が軍を率いて趙を攻撃したとき、屯留・蒲鄗の兵卒を従え、咸陽の焼討ち、憎んでも余りある始皇帝の首を狙うと誓って反乱をおこす。
しかし秦がこれを攻撃すると、無残に鎮圧される。成蟜は屯留で死に、軍吏はみな斬り死にし、その民は臨洮に遷された。
『呂不韋列伝』には記載がないが、成蟜の反乱は
嫪毐の乱と関連があり、彼は成蟜の蜂起に呼応して咸陽を揺さぶる作戦だった―――。