禹によって始まった夏王朝は、禹の子孫が代々受け継いだが、しだいに諸侯を統制できなくなっていた。 諸侯が離反しつつあった時期、夏王朝十七代として即位したのが桀である。
桀王は、王朝の衰えを気にすることなく、美女たちを集めて酒色にふけり、悪女・末嬉を溺愛して、人民を痛めつけるのを喜んだという暴君として知られている。 ところが、『史記』が伝える桀王は、それほどの暴君ではない。 自分の徳を磨こうとせず、人民を痛めつけたとあるだけだ。 衰えゆく夏王朝を立て直せなかった、無力な君主であったにすぎない。
夏王朝の桀王が希代の暴君とされたのは、後世の人たちが殷王朝の正当性を説きたかったからであろう。 桀王が信頼を失うと、諸侯の支持は有力諸侯のひとりである湯に集まっていった。
これに嫉妬した桀は、湯を捕らえ、夏台に幽閉する。 桀は、これで諸侯らの湯への支持熱は冷めただろうと思い、湯を釈放する。 ところが、釈放後も湯の人気は変わらず、湯はついに桀に対して立ち上がる。
湯の軍勢は桀の軍勢を破り、桀は長江流域の南巣に逃れ、そこで死んだとされている。 桀は最後に、「湯を夏台に幽閉したとき殺さなかったために、こんなことになってしまった」と嘆いたという。
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