夏王朝の創始者とされる伝説の人物。 時の帝・の命を受けて黄河の治水工事を見事成功させた。 その実績を帝・舜に認められ、帝位を譲られる。
堯→舜→禹と譲位による帝位継承が行われたが、禹は後継者に自身の息子であるを選んだ為、ここから帝位の世襲制が始まった。


桀王

禹によって始まった夏王朝は、禹の子孫が代々受け継いだが、しだいに諸侯を統制できなくなっていた。 諸侯が離反しつつあった時期、夏王朝十七代として即位したのが桀である。
桀王は、王朝の衰えを気にすることなく、美女たちを集めて酒色にふけり、悪女・
末嬉を溺愛して、人民を痛めつけるのを喜んだという暴君として知られている。 ところが、『史記』が伝える桀王は、それほどの暴君ではない。 自分の徳を磨こうとせず、人民を痛めつけたとあるだけだ。 衰えゆく夏王朝を立て直せなかった、無力な君主であったにすぎない。
夏王朝の桀王が希代の暴君とされたのは、後世の人たちが殷王朝の正当性を説きたかったからであろう。 桀王が信頼を失うと、諸侯の支持は有力諸侯のひとりである湯に集まっていった。 これに嫉妬した桀は、湯を捕らえ、夏台に幽閉する。 桀は、これで諸侯らの湯への支持熱は冷めただろうと思い、湯を釈放する。 ところが、釈放後も湯の人気は変わらず、湯はついに桀に対して立ち上がる。 湯の軍勢は桀の軍勢を破り、桀は長江流域の南巣に逃れ、そこで死んだとされている。 桀は最後に、「湯を夏台に幽閉したとき殺さなかったために、こんなことになってしまった」と嘆いたという。


末喜

夏の最後の帝・桀王の妃の一人。有施氏の娘。・喜末嬉妹嬉とも書かれる。
絶世の美女といわれた末喜は桀に気に入られ、妃とされて愛された。 末喜の願いに応えるために桀は傾宮という巨大な宮殿を建て、落成祝いにはかつてない規模の宴会を催した。 桀王が殷の湯王に鳴条で敗れると、桀とともに海に流され、南巣の山で死んだという。