桓公

?〜前643年

名は小白(しょうはく)
春秋時代のの第16代君主で、春秋五覇の筆頭として知られる名君。43年という長い在位期間の君主。
桓公が覇者になることができたのは、ひとえに人材登用に成功したからである。 桓公には若い頃から、
鮑叔(ほうしゅく)という賢人がついており、この人物によって紹介された管仲という天才軍師を得たことが大きいとされている。
管仲は、もともとは桓公と斉の主権争いをして敗れた兄の側に仕えていた人物ある。兄の命令で、桓公を弓で射たこともある。 桓公にとって、管仲は自らの命を狙った憎い敵であり、なぶり殺しにしてしまおうと考えていた。それを止めたのは、鮑叔である。 鮑叔と管仲は強い絆で結ばれた友人どうしであり、鮑叔は管仲の天賦の才を知っていた。鮑叔は桓公に、
「斉の国を治めるだけなら私でも役に立てるが、天下の覇者となりたいのなら管仲が必要だ」
と説いたのだ。 この管仲と鮑叔の友情から「管鮑の交わり」という言葉が生まれた。
桓公は、鮑叔の意見にうなずき、管仲を軍師とする。桓公には、自らを殺そうとした管仲を軍師に取り立てる広い度量があったのだ。

管仲のとった政策は、富国強兵である。法治主義によって国内を安定させると斉には多くの民が流れ込んできた。 斉の税収は増え、強力な軍隊を運営できるようになる。
桓公の即位の翌年には、譚の国を攻略し、さらに魯(のちに孔子が生まれる国)にもその軍事力を見せつけた。 また管仲は、桓公を徳のある君主に見せることに成功する。 斉が魯を攻め、領土の割譲を条件とする和睦調印式を行ったとき、魯の家臣・曹沫が桓公に匕首を突きつけて、土地を返すように迫ったことがあった。命には代えられないから、桓公は魯に土地を返却することを認めた。 このあと、桓公は脅迫による合意を守る必要はないと、土地を返すまいとしたが、管仲は反対する。
「一度承知したことを翻しては、天下の信用を失います」
の一言で、桓公は思いとどまった。 これによって、桓公は、諸侯からも懐の広い実力者として信用を得たのであった。
そして紀元前651年、桓公は諸侯と会盟を執り行い、ここに覇者となった。
ただ、覇者・桓公の最期は悲惨であった。 管仲は死去するさいに、料理人の易牙ら三人の名を挙げ、決して近づけるなと言い残すが、桓公はそのゴマすり三人組を寵愛する。
桓公が死去すると、この三人は権力闘争をくり広げ、桓公の死体を葬る者さえいなくなった。 斉はこの後もたびたび後継者争いが起こり、覇権は晋、楚へ移った。



文公

前696年〜前628年

姓は、諱は重耳(ちょうじ)、諡は文。
中国春秋時代のの君主。 晋随一の名君で、春秋五覇の一人。
晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君主となって天下の覇権を握った。  
文公が覇者になれたのは、大国・秦の後ろ盾を得たことにある。
斉の桓公亡きあと、中原では斉に代わり晋が台頭していた。文公の父・献公の時代には晋が中原の大国となりつつあった。また、黄河西方では、
穆公(ぼくこう)によって秦が強国となっていた。
そんな情勢の中、晋で内輪揉めが起きた。
献公驪姫(りき)に溺れ、驪姫は自分の子を太子にしようと企てる。献公には、すでに太子・申生とのちに文公となる重耳らがいたが、驪姫は彼らを遠ざけ、ついに申生を自殺に追い込む。 重耳も、驪姫の讒言によって、晋から逃げざるをえなくなった。

それから19年間、重耳は逃亡の人生を送る。その間、晋では弟である夷吾が
恵公として主の座についていた。 恵公は、重耳を君主の座を驚かす邪魔者とみなし、暗殺者を送り込むが、重耳は難を逃れる。 重耳の逃亡中、中原の大国・晋と西域の大国・秦との間には、軋轢が絶えなかった。秦が飢饉に陥り、晋に救援を求めたときには、晋の恵公はこれを好機とみて秦に攻め入った。 穆公の軍勢は危機に陥るが、地の利を生かして逆転し、恵公を捕虜にする。恵公はなんとか許され、息子・子圉(しぎょ)を人質として秦に送る。
恵公の死後、その子圉は穆公に挨拶もなしに帰国し、懐公として即位する。 穆公はその無礼に腹を立て、晋に良識のある親秦派の君主を立てようとする。そこで目に留まったのが、当時、楚にいた重耳である。
秦は重耳を自国に迎え入れ、重耳を先頭に立てて晋に攻め込んだ。晋内の重耳派も呼応して、重耳は晋の文公として即位した。 この時重耳は、62歳になっていた。

その後、重耳は国力を充実させ、南方の大国・楚の軍勢を打ち破り、晋が中原の王者であることを証明した。 紀元前632年、践土に諸侯を集めて会盟を行い、覇者となったのである。

中原諸国が晋の文公に従わざるをえなかった背景には、晋と秦の強力な友好関係があった。 西の軍事大国・秦がバックにいるかぎり、晋の文公に逆らうことは出来ない。 文公は、もうひとりの覇者候補に助けられての覇者だったというわけだ。



荘王

?〜前591年

姓は、名は旅(侶)、在位23年。
中国春秋時代のの第6代の王。
楚の王の中でもっとも有名な王で、春秋五覇のひとりにあげられる。
「鳴かず飛ばず」や「鼎の軽重を問う」の故事でも有名な名君。



夫差

?〜前473年 

春秋五覇の1人に数えられる 6代目の呉王・
闔閭の次男。
父・闔閭が越王・
勾践によって討たれ、その仇を討つために名臣・伍子胥(ごししょ)の補佐を受けて即位する。 前494年、精兵をもって越を討ち、会稽山に追いつめた。 句践は和を請い、夫差は伍子胥の諫言を無視して句践を許した。
以後、夫差は斉や魯を攻撃して、覇者となることを望んだ。
しかし、越から献上された美女・西施におぼれ、たびたび諫言をおこなった伍子胥を自殺させた。
一時は覇者として号令を称えるまでになったが、勾践の反撃により敗北して自決した。



勾践

?〜前456年

春秋五覇の1人 春秋時代後期のの王。
即位した前496年、呉王・
闔閭に戦いを挑み、これを敗死させた。 前494年、その息子である夫差に復讐戦を挑まれ敗北したが、夫差の臣僕となることを誓い、許された。 帰国した勾践は復讐を誓い、家臣・范蠡(はんれい)の進言に従い、作戦を企てる。いったんは呉に恭順したふりをし、呉が斉・晋・楚と戦うように仕向け、国力を消耗させていったのである。
そんな勾践の深謀に気づかず、夫差は黄池に諸侯を集め会盟を開く。そのスキをついて、越は呉を攻撃しはじめた。 以後、呉の国は荒廃し、前478年、越は笠沢で大勝し、呉の都を三年にわたって包囲した。
夫差が命乞いをしたので、勾践はいったん許す気になったものの、范蠡がそれを許さず、夫差は自害する。
その後、勾践は呉を平定し、呉が奪っていた土地を楚や宋に返還してやり、覇者となった。



闔閭(こうりょ)

?〜前496年

春秋五覇の1人に数えられる。 春秋時代の国の一つ・呉の6代目の王。諱は光。
名臣・
孫武伍子胥(ごししょ)などの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王・句践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した。


西施

本名は施夷光。中国では西子ともいう。
中国古代4大美女の一人とされる。
越の復讐のために、
句践夫差へ送り込んだ美女。 もともとは薪売りの娘だったが、勾践の参謀である范蠡(はんれい)の戦略に従い、対夫差用に調教された。 その類まれなる美貌から夫差を虜にし,国政を傾け,ついには呉を滅亡させるきっかけをつくった。
夫差の死後の消息に関してはいくつかの逸話が語り継がれているが,いずれも史書には記述されていないので謎である。 彼女に関して「
顰に倣う(ひそみにならう)」という故事も生まれている。


「顰に倣う」の生い立ちエピソード
西施が胸を病んで眉をしかめていたところ、その村の醜女が、それを見て美しいと思い、家に帰ると、また同じように胸に手を当てて、眉を顰(しか)めるようになった。 それがあまり醜いので、村の金持ちは、それを見ると、門を堅く閉じて、外に出なくなり、貧乏人はそれを見ると、妻子を引き連れて、村から逃げ出した。
顰みにならったことのどこがいけないのかと言うと、それは眉を顰めれば美しく見えるのだと短絡してしまったこと。 この醜女は、顰めたのが傾国の美女・西施であったから美しく見えたのだということを忘れ、ただその所作を真似ればよいと誤解してしまったのだ。



孫武

中国史を代表する兵法家。
斉に仕えた孫武は、その著書「
孫子」で春秋時代前半まで濃厚に蔓延していた古い体制を打破し、貴族や兵の強さのみに重きを置かず、集団戦・情報戦の大切さを説いた。
孫武の兵法は長く兵法のみならず現代においてもビジネスの実践書として人々の参考にされている。



孔子

前552年〜前479年

本名は孔丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑の人。
秩序の乱れた春秋戦国時代に、
礼と仁、すなわち秩序と思いやりを唱え、儒教を創設した。 理想の政治をすべく弟子と共に各地を転々としたが、政治家としては不遇で、晩年は弟子の育成に専念した。
彼の死後、儒教は秩序・礼式を重んじる思想として発展していったものの、春秋戦国時代・楚漢時代では所詮百家のうちの一つに過ぎなかった。
漢王朝はその理想主義・形式主義を利用するため国教とし、その後は中国における王朝国家の思想的基盤として長く利用された。 
近年、一時は封建制の権化として徹底的に嫌われたが、最近になって孔子自身は教育者・人格者として再評価されている。



老子

道教の始祖といわれる人物。
宮使えしていたが、それが嫌になり、『老子道徳經』を残して去っていたとされる。
伝説的なものを多く含み,後の莊子による思想と会わせ,「老荘思想」と呼ばれるが,それは孔子の儒教に対する反論として発生したと思われる面が強い。
儒教がその宗教性と礼教性に分離し,宗教性としての威力を失っていったのに対し、
道教は、中国における民間行事、民間宗教、民間伝統を取り込み、中国唯一の宗教として確固たる地位を占めることになった。