五帝


黄帝(こうてい)

姓は公孫、名は軒轅
中国の伝説上の古代帝王。五帝の一。
『史記』『五帝本紀』には、神農に代わって帝王となり、善政を行ったことが記されている。『易経』では、彼が衣服・交通運輸・弓失・家屋・文字などの創案者となっており、中国古代文化の源泉に擬せられている。道家では黄帝をその学派の始祖とし、不老長生の術の体得者としたが、このようなことから、彼は医学の創始者とみなされるにいたった。古代の医学書に『黄帝内経』など、彼の名に仮託した書物があるのはこのためである。黄帝は五帝の第1に置かれたため、漢民族の第1の祖先と仰がれることとなり、
黄帝紀元もつくられているが、これはもとより根拠のあるものではない。


顓頊(せんぎょく)

名は高陽。あるいは、高陽に都して高陽氏と称したと言われている。
五帝の1人で、黄帝の後を継いで帝位に就いた。在位78年と言われている。黄帝の孫にあたる。
顓頊は、他の伝説上の天子と同じく高潔な人間として描写されている。史記には、祭祀をよく執り行った帝として描写されている。


(こく)

名は高辛。あるいは、高辛に都して、高辛氏と称したと言われている。
黄帝の曾孫にあたる。息子に、堯がいる。
嚳は、他の伝説上の天子と同じく、高潔な人間として描写されている。史記には、生まれながらにして、自分の名を言うことができ、明晰な人であったと記されている。


(ぎょう)

姓は伊祁(いき)、名は放勲
次の王となる舜とともに、孔子が理想とした君主で、理想の「聖王」とまでされている。
堯は、黄帝の血を引くもので、即位すると自らを厳しく律し、臣下の言うことをよく聞き、善政に努めた。 黄帝は暦の発案者だったが、堯は暦に春分、夏至、秋分、冬至を定め、農業生産の向上に気を配ったという。
堯が聖王とされる最大の理由の一つは、血統によらない後継者指名を行ったことにある。 このことは、中国世界においては堯が初めてで、帝位を理想的な形で譲り渡したことで、彼の名は中国史に輝かしく残っている。


(しゅん)

姓は(よう)、名は重華(ちょうか)、虞氏と称した。
舜は、堯から帝位を譲り受け、後世「堯舜の時代」と呼ばれる、よく治まった世の中を維持した帝として知られる。
『史記』によると、舜は二十歳のときには親孝行として知られ、三十歳のときに孝行ぶりを認めた堯に抜擢される。 堯はやがて舜を聖人と認め、帝位を代行させるほどになる。 堯が死去したときもすぐには帝とはならず、三年間、喪に服した後、堯の息子・丹朱に帝位を譲ろうとした。 しかし、諸侯らは丹朱ではなく、舜のところにばかり集まったため、舜はやむを得ず自ら即位した。 舜が堯と並ぶ聖王とされるのは、堯同様、後継者を自分の子孫から選ばなかったからだ。 舜には息子がいたが、治水事業に成功した禹を後継者に指名した。 禹は、夏王朝の始祖になる。