周恩来
生没年 1898年~1976年
姓・諱 字は翔宇
出身地 江蘇省淮安市
関連人物  孫文 / 蒋介石 / 毛沢東 / 鄧小平

中華人民共和国の革命指導者・政治家。
建国から死去まで中華人民共和国の政務院総理、国務院総理(首相・・・在任 1949-1976)として在職。 毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから“不倒翁”(起き上がり小法師)の異名がある。


幼少時、周恩来は叔父のもとにあずけられ極度に貧しい生活を送った。
その後、アメリカの援助で新設された南開大学に進学し、卒業後はフランスに留学し、急速に共産主義思想に目覚めていった。
周恩来は毛沢東に継ぐ中国共産党の実力者として絶対的な信望を集め、膨大な行政機構を掌握し縦横に動かした。 多くの人々が、周の卓越した記憶力と人をそらさぬ話題の豊富さなどの魅力を語っている。
人心の機微をつかむという周恩来の本領が最も良く発揮されたのが、日中戦争の分岐点ともなった西安事件である。
孫文の死後、蒋介石は孫文の遺志を無視して中国南部の共産党根拠地に対して大規模な攻勢にでた。 そして共産党の根拠地は、国民党の軍隊の重圧下に置かれた。
東北地方には日本軍の謀略により父・張作霖を殺された張学良があった。 張学良は満州の帝王になるべき人物であったが、日本軍と戦うために蒋介石の軍門に降る。 しかし蒋介石はそんな張学良に対して日本軍ではなく共産党に対する討伐を命じた。
しかし、張学良も配下の東北軍も、日本と戦おうとしている共産党と戦う気はなく、共産党に対する討伐は遅々として進まなかった。
業を煮やした蒋介石は1936年自ら西安に赴いて共産党への攻撃を監督しようとした。
しかしその蒋介石を張学良が逮捕監禁し(西安事件)、ほどなくして蒋介石と共産党の周恩来との会談が実現した。
この後、蒋介石は「一致抗日」を受け入れ第二次国共合作が実現するのである。

周恩来は、中国共産党の毛沢東の下で主に外交を中心に大きな役割を果たしてきた。
日中戦争中は国民党や米国との交渉にあたり、日中戦争終了後の国共重慶会議にも出席、中華人民共和国成立から間もない1950年には難航する中ソ会談で毛沢東主席の力となった。
周恩来は、中国が初参加した国際会議であるジュネーブ会議(1954年)に臨んだのをはじめ、中華人民共和国の対外交渉のほぼ全ての案件を手がけてきた。
そして毛沢東夫人の江青との激しい権力抗争や文化大革命による失脚の危機を乗り越えていった。