朱元璋
生没年  1328年~1398年
姓・諱  字は国瑞(こくずい)。本来の名は朱重八。
出身地  濠州の鐘離(現在の安徽省鳳陽県)
関連人物   郭子興/馬皇后/朱棣/徐達/劉基/李善長/胡惟庸

貧民の子から身を起こし、群雄を平らげ元王朝を北方に追いやった。
17歳のときに疫病で両親と長兄を失った元璋は、生きるために皇覚寺で出家して僧になるが、寺でも食べていけず3年にわたって諸国を遍歴する。
1352年、反乱を起こした郭子興のもとに身を投じる。 その後頭角を現し、郭子興の養女・馬氏の婿に納まって一族の中に食い込む。 郭子興が死ぬと朱元璋その部隊を引き継ぎ、集慶(南京)を落として応天と改名し、根拠地とした。
1363年、漁師から身を興し湖北・江西で漢国皇帝を称した陳友諒を鄱陽湖の戦いで破り、1367年、塩の密売人あがりで江蘇で呉王を称していた張士誠を滅ぼすと、元朝を打倒するべく旧友徐達を総大将、常遇春を副将に北伐を開始。 1368年、この年を洪武元年、国号を明と定め、朱元璋は皇帝の位に就く。
即位後は、明王朝の存続に腐心するあまり、功臣を次々と粛正した。 左丞相の胡惟庸を殺し、一万人以上を連座させて殺したのを皮切りに、開国の元勲の李善長に死を賜り、三万人余を族誅、藍玉を謀反の罪で処刑し、一万五千人を連座させた。
丞相を廃し、皇帝が六部を直轄する皇帝独裁の支配を確立した。
彼は自分の死後功臣が反逆をおこすことを恐れて、対蒙古の要地には自分の息子たちに兵権を与えて配置した。 後に孫にあたる建文帝を破滅に追いやったのは、彼のこの虐殺のためであった。



人物評価
なにかと漢の高祖・劉邦と比べられるこの人。
出身が農民からだっただけに、似ているところも多い。劉邦ともども、建国前までは英雄というべき存在だったが、大量粛清しすぎたため、その評判はガタ落ち。
ただ、奥さんには恵まれたのね(笑