蒋介石
生没年 1887年10月31日~1975年4月5日
姓・諱 名は中正で字は介石
出身地 奉化県(現奉化市)渓口鎮
関連人物  孫文 / 毛沢東 / 汪兆銘 / 張学良 / 宋美齢

中華民国の政治家。中華民国総統。
蒋介石は当初、科挙で合格し役人になることを夢見ていたが、清朝の改革で科挙が廃止されたため仕方なく日本に留学した。
そこで、孫文の弟子の陳其美に出会い、孫文の革命思想に共鳴するようになる。
その後、孫文の作った中華同盟会に加盟し、辛亥革命(1911年)に参加。 その後、辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得、後に中華民国の主席となる。
蒋介石は士官学校を作り、将校の育成をするとともに孫文の唱えた『三民主義』思想を広めた。
孫文の死後は中国共産党・地方軍閥に対して「北伐」を開始し、各地で打ち破っていく。
その後、上海クーデターで中国共産党を弾圧。張作霖を北京から追い出し、党および政府の実権を掌握する。 一旦は収まったようにみえた対立だが、実際はそうでもなく、その上、満州事変を始めとする日本の侵略があった。
蒋介石は日本の侵略に対し、外敵よりもまず内敵から、すなわち勢力を拡大し始めた「毛沢東率いる共産党勢力」を潰そうとした。
しかし、これには国民党内からも批判が相次ぎ、遂には西安で監禁されしぶしぶ国共合作をした。 
日本の敗戦後は国共内戦を始めるも、その腐敗・独裁化により国民の支持を失い、台湾へ逃げた。
大陸反攻を叫ぶも71年には国連の議席も失い、失意のうちに没した。



◆上海クーデター(1927年4月12日)
中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のこと。
四・一二事件とも言う。
孫文はソビエトの力を借り、連ソ(ソ連と手を組む)・容共(中国共産党と協力する)・労農援助(労働者と農民を助ける)の三大政策を実施したが(第一次国共合作という)、 孫文の死後、反共を唱える国民党右派の蒋介石により、国共合作は崩壊した。