劉邦
生没年 前256年~前195年
姓・諱 字は李。
出身地 沛県豊邑
関連人物  項羽 / 韓信 / 蕭何 / 張良 / 呂后 / 朱元璋

前漢朝の初代皇帝( 漢の高祖)。
若いころから任侠の徒と交わり、やがて泗水の亭長となる。
陳勝・呉公の乱」に応じて蕭何らと挙兵。故郷の沛に拠り沛公と呼ばれる。 陳勝呉公の死後は楚の項梁、項羽と連合し各地を転戦する。
関中平定のために
項羽と争うが、先に関中を落としたのは劉邦であった。 そこで
「殺人を犯した者は死刑。人を傷つけたり、人のものを盗めば罰する」
という法三章を発布し人心を安定させる。
そのため項羽の反感を買い、殺害されかけるという事件もあった。  
鴻門の会で項羽との和議はなったが、劉邦は漢王として巴蜀、漢中の辺境に押し込められた。 しかし、ひそかに漢中を脱出し、韓信蕭何張良などの賢臣を使いこなし、約3年にわたる戦いを通じて勢力を挽回。 前202年、垓下の戦いで項羽を破り中国統一を成し遂げ、漢王朝(前漢)を建国する。

即位後は、韓信をはじめとする建国の功臣を次々と粛正した。
その後、匈奴の
冒頓単于(ボクトツゼンウ)の南下を止めるために直接兵を率いるが、白登山で危うく虜になりかけ、単于を兄とする盟約を結んでようやく許される。
劉邦は匈奴と皇后・呂氏一族の内憂外患を残したまま、前195年、燕王討伐のさいに受けた矢傷がもとでこの世を去る。