毛沢東
生没年  1893年~1976年
姓・諱
出身地  湖南省湘潭(しょうたん)県
関連人物   朱徳 / 蒋介石 / 劉少奇

中華人民共和国の創立者で、中国共産党の指導者。
1921年に中国共産党の創設に参加。 その後、次第に党内での地位を確立していき、1931年に江西省瑞金で中華ソビエト共和国臨時政府が樹立された際には、その主席に就任した。
1949年10月の中華人民共和国成立とともに中央人民政府主席に就任。
1954年には憲法公布に伴い、国家主席に就任。辞任後は、中国共産党中央委員会主席として最高指導者の地位に留まった。
当初はソ連を重視していたが、次第にソ連式の社会主義建設に批判を強め、中国独自の社会主義建設を唱えるようになった。
1966年には、自らの復権のため、
文化大革命を発動し、近衛兵らを動員、結果的に中国全土を大混乱に陥れることとなった。


文化大革命
プロレタリア文革、文革ともいわれる。
1965年から約10年間にわたり、中国全土を大混乱に巻き込んだ思想・政治闘争。
社会主義を資本主義に変質させようとする”修正主義”と常に戦わねばならないという、毛沢東の階級闘争理論が基礎となっているが、実際は、大躍進政策に失敗し、国家主席を辞任することとなった毛沢東が、自らの復権と絶対的権威の確立を目指し、開始したとされる。

当時、毛沢東は5年後に、イギリスを抜き、10年後にはアメリカを追い抜こうと意気込んでいた。
そのため、農業の協業化や農村の行政機関の一体化をはかったり、(
人民公社の設立)人海戦術で大量製鉄をするなど、食料の大増産と工業化を一気に進めてしまおうという「大躍進政策」を取った。
しかし実際は、鉄は実際に用いることが出来ない屑鉄を大量に生み出し、食料については、鉄の生産にあけくれていたことと、自然災害なども加えて、多くのの餓死者を出す悲惨な結果に終わった。 このことは、毛沢東の権威を著しく損ない、党の権限は、
劉少奇鄧小平などの毛沢東批判派にうつっていた。
危機的状況に陥った毛沢東は、
林彪とむすび、学生を近衛兵として組織、「実権派」批判を展開させた。
その後、中国共産党の後押しを得て、運動は全国に広がっていった。
近衛兵による伝統文化の破壊、知識人や官僚に対する弾圧は熾烈を極め、激烈な権力闘争に発展し、多数の犠牲者を生み出した。
1976年には
天安門事件が起こり、翌年文革の終結が宣言された。 その後、文革は、正式に中国共産党によって「動乱の10年」とされ、その意義を否定された。


天安門事件
1989年6月4日の未明、北京の天安門広場で、民主化を要求して座り込みを続けていた学生と市民を、人民解放軍の戦車・装甲車が実力で排除した事件。 
人民解放軍は学生と市民に対して無差別に発砲し、多数の死傷者をだす悲劇となった。
事件後、民主化を要求する運動は反革命暴動とされ、中国政府・中国共産党による徹底的な引き締めが行われた。
これに対して、アメリカをはじめとする西側諸国は人権抑圧として中国の指導部を批判し、経済制裁を行った。 趙紫陽総書紀はこの暴乱に加担したとして解任され、江沢民が新しい総書記に選任された。