武帝
生没年 紀元前156年~ 紀元前87年
姓・諱 劉徹。廟号は世宗。
出身地
関連人物 

前漢の第7代皇帝。
中央集権的専制主義に基づく古代統一帝国の完成者として、中国歴代の皇帝のなかでも最も著名な専制君主の一人である。 その在位は半世紀余の長期にわたり、その間前漢帝国の最盛期を現出した。
秦の始皇帝がめざした中央集権的専制主義は、前漢建国期に一時 後退を余儀なくされた。
しかし、呉楚七国の乱(前154年)で弱まった封建諸国の勢力に対し、武帝は「推恩の令」をはじめとする諸施策によってこれを抑圧した。
また「郷挙里選の法」を採用して官僚制度を整備するとともに、
董仲舒を用いて儒教を専制支配の思想的支柱とするなど中央集権的専制主義を完成させた。
一方その充実した国力を傾けて対外的積極政策を推進した。
戦国時代以来中国を圧迫していた匈奴征討を遂行し、数十万人の大軍による外征を繰り返した。
その後
衛青霍去病の活躍により匈奴を北方に退けることに成功した。
また、西方の
大月氏と結んで匈奴を挟撃しようとして張騫を派遣し、東西交易路の中心となる西域諸国を従えた。
このため漢とローマを結ぶ「絹の道」の交易が盛んとなって、東西交渉のルートが開通した。
このほか南越遠征によって9郡を設置したあと、朝鮮に出兵し衛氏朝鮮を滅ぼして、4郡を設置するなどその版図を拡大した。
このような大規模な外征による国庫の窮乏を救うためにも、中央集権的専制主義を完成するためにも、積極的な財政政策を実施する必要があった。
武帝は強力に新たな施策を実施した。
五銖銭の鋳造による経済の安定、銭納賦税をはじめとする諸新税、売爵制、塩・鉄・酒の専売、均輸・平準法など国庫収入の増加をはかることに努めた。
しかし民力の疲弊が進み、大商人・大土地所有者が勢力を拡大し、貧民・流民が増加して武帝の治世の晩年には帝国衰退の兆しが表れた。